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zoom RSS 長崎学の研修旅行

<<   作成日時 : 2018/09/07 11:30   >>

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 今回の研修旅行では 「台風21号」上陸の直前に大阪伊丹空港を離れたのが何よりの幸運だった。 台風が一日早かったら・・・旅程は大混乱した筈! (関空では今も閉鎖中。) 
 研修先は次のとおりだった。 (1)一日目に織田信長の「安土城跡」「安土セミナリオ跡」を見学 (2)二日目は金沢教会でのミサに参列後 同教会が設置した「浦上キリシタン殉教者の碑」を見学。 「兼六園」も見学。 (3)三日目は「彦根城」を見学して帰途。 今回のレポートは金沢での「浦上四番崩れ」に絞ってみたい。

 金沢では 「浦上四番崩れ」 六百数十人を受け入れ 棄教を勧める程度の「客人扱い」だったが 説得がうまく運ばなかったので 8カ月後くらいから棄教の説得を本格化した。 段々待遇も悪くなったが 拷問などは一切無かったと。 それでも死亡者 計103人 (子供:ハシカで43人 腸チフスで3人   大人:病弱57人)
       写真: 浦上キリシタン(四番崩れ)の殉教者碑 (金沢の人達が昭和43年建立)
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        正面の題字:「義のため迫害される人は幸いである」 
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        金沢教会出版の「浦上キリシタン流配史」 (全体がよく記録されていた。 ミサ参列時に受領)
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 「浦上四番崩れ」を受け入れた当時の金沢は 初代藩主の前田利光の頃は キリスト教を大切に扱い 教会も建設させていた。 その中心人物が「元キリシタン大名」「高山右近」だった。 右近は金沢藩のお抱えとして26年間も金沢に留まり キリスト教の普及に努めた。 そんな経緯から 「禁教下」の徳川時代を 金沢のキリスト教徒は どんな形で生き延びたのか? もう少し知りたかった。 明治政府の命令に従って「浦上四番崩れ」を受け入れた金沢ではあったが その処遇にはいささか寛大な土地柄だったように感じた。

 さて 「右近」は12才で洗礼を受けた「キリシタン大名」(高槻藩主)だったが 戦国時代の「織田信長」方につき「信長」と「渡来宣教師」との交流に関わったり 安土城下に「セミナリオ」(神学校)の建設にも関わっていた。
戦国時代を通じて 多くの武士にキリスト教の理解者も得た。 その一人に金沢藩主の「前田利光」が居た。 秀吉の「バテレン追放」でも 「棄教しなかっ右近」は 金沢藩預かりとして「前田利光」に迎えられた。 
高山右近の生涯: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91

 金沢藩では 右近がキリスト教の布教に熱心だったので 金沢教会では「高山右近」が敬愛されている。
       写真は教会入口にある「右近」の像と説明板:
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       金沢教会(明治21年創立)でのミサに参列:
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 1614年 家康が「禁教令」を発したので 右近はいよいよ国内に居れなくなったので フィリッピン(マニラ)に追放されたが 翌1615年マニラで没した。(63才) 
2016年 彼はローマ法王から「殉教者」と認められて「列福」された。

 「列福」とは 聖者としての審査を開始されるという「宣言の儀式」だとされている。 「高山右近」が聖者に認定される可能性がある。 身近な所で長崎には「26聖人」が既に認定されている。
長崎の26聖人: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA

 26聖人を復習していて気付いたのだが・・・高山右近も秀吉の「処刑対象者」に載っていたが 石田光成が「捕縛者名簿」から削除してくれたと知った。 これが失敗していたら・・・「長崎27聖人?」になっていたかも知れないと 一人したり気分である。

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