「社宅住まい」の思い出

 庭の黄色の小さな花弁が とても綺麗だと感じたので 撮影してみた。 200528 花2.JPG

 庭の草花を眺めては アトになって その名前を教えて貰ったり 調べたりしているのだが・・・丁度45年前(昭50年)「東京の社宅」の庭にあった「エニシダ」の一種で 今回は一回り小さな「ヒメ エニシダ」だという事だった。 

 一株の鉢植えの花から 「社宅住まい」の記憶にスキップしてしまった。 転勤などで一旦社宅住まいができたら 以後は社宅がついて回る(既得権みたい?)ような時代だった。 
東京では標準的な鉄筋建ての社宅だったが ある時先輩の社宅の隣に空き家が出た情報をキャッチしたので 会社の担当部署に「古くても良いから 広い社宅」に移りたいと相談したら・・・先輩の隣に移転させて貰った。 戦後すぐに建てられたらしく 小さな部屋ではあったが4室もあり 土地は80坪もあった。 庭には「池」や「桜の木」もあり大満足だった。 戦後の元幹部クラスの社宅だったのかも知れない。

 翌年 長崎に戻る事になり 長崎でも「同じ要望」を出してみたら・・大変古いものだったが 間数だけは期待以上だった。 (女子バレー部の合宿所になっていた位の代物だった)
ある時 通路側から家を覗き込んでいるご婦人が居られたので 用向きを尋ねてみたら・・・少女の頃ここに住んで居たという方だった。 上海航路の「船長さんの自宅」で 入港の汽笛を聞いたら その船を二階の廊下から眺めて居たと・・・。 上がって貰ったら・・二階の縁側に直行された事を思い出した。

 その後40才になって現有地を購入し 数年後に引っ越したのだが・・・その後もう一度 東京で社宅暮らしになったけど 今では「親も子も」居なくなってしまったので 5L.D.Kの家が「二人だけの住まい」になってしまった。

 住まいという物は 「家族構成」や「勤務地」や「収入」などにより 時々の生活ニーズが変わるので 社宅や借家暮らしの方が 重宝だと思っていた。 最近の人たちは若い頃から「持ち家」みたいだから 転勤ともなれば大変だろう! 
転勤するくらいならば「転職」してしまうような「選択肢」でもありはしないだろうか???

追記: 「結婚後の住居記録」を定年の頃に整理して居たので 夫々の「居住
    期間」「住所」「間取り図」程度ならばパソコンの中から いつでも
    検索可能である。 
     他にも「県内外の重大災害記録」など ごく最近になって追加分を
    書き加えた。 
    何を今更とも思うが・・・ペーパーレスの資料整理ならば・・・在宅
    でも(コロナ対策)十分楽しめる「時間の過ごし方」みたいである。       

 

食べ物の好き・嫌い(移り変わり) 

 最近のカボチャは 小粒で 実に美味い! 200526 カボチャ5.jpg
 昔は(小学1~2年頃)大きいので腹の足しになるとでも考えられたのだろうが・・・水っぽくて 実に不味い「学校給食」だった。
「カボチャ汁」に うどんが数本浮かべられていたようだった。 しかも 日本の子供たちの栄養補給の為に 進駐軍指導の給食だったと聞かされていた。 最近の美味しいカボチャを知るまでは 生理的にずっと「カボチャ嫌い」だった。
 当時のアメリカには 「家畜の餌」用に大きなカボチャでもあったのだろうか? と今頃になって知りたくなった!

 一時期は「鯨肉」が大嫌いになっていた。 クラブ活動を終えて学生寮に戻ると・・・「ご飯」と「鯨肉の炒め物」その他が 冷たくなったままテーブルに配膳されていた。 栄養的にもカロリー的にも 鯨肉は格好の食材だったのだろうが 生きる為に喰っている感じで・・「冷めた鯨肉」には食傷気味だった。 ところが 長崎に来て 小料理屋で出された鯨肉の美味しさに巡り合った時から 鯨肉嫌いが一変した。 

 入社後の独身寮では 食べる者が賄いさんから暖かい状態でつぎ分けられた食事を頂く仕組みだったので・・・極楽にでも来たような感じだった。 残業が続く高度成長期には 毎日の夕食が遅くなり・・・晩酌しながら食べてはすぐ寝る時間の繰り返し。

 80才を迎えた最近では 健康上「野菜」「肉・魚」そして「ご飯」の順番にも気を使っているので・・・美味しいもの探しにも拘わるようになった。 目下の処 さっばりしている「新玉ねぎの甘酢漬け」が気に入っている!!!

 さて 都会暮らしの孫たちを見ていると・・・美味しいものが子供の頃からはっきりしていて 家庭でも学校でも気配りされている「恵まれた時代」だから「将来の日本人」の暮らし向き(家庭・社会・政治・文化)も相当に違ったものに成りそうなので 今暫くは 行く末を見届けたいものである。

石垣の草取り(スルスルと抜ける感触)

 石垣の草は 根っこが長く スルスルと抜けるので 気持ちが良くて 途中でやめ難い感触である。 ちょっと抜いただけでも すぐに一握りになってしまった。 (コロナ対策:その3   庭いじり) 200521 石垣の草取り - コピー (2).JPG

 元々は少しづつ しかも随所に根付いているシッコイ草である。 200521 石垣の草2.JPG200521 石垣の草1.JPG 
 コツコツとハマり込んだら・・家の裏も 道路側も見違えるようにスッキリ! 200521 草取り後の石垣2.JPG 200521 草取り後の石垣1.JPG




我が家のコロナ対策(通院と散髪)

 できるだけ外出しない 外出したら・・マスク 手洗い うがい には気を付けているが 他にも出掛けねばならないのが 「通院」と「散髪」(待ち時間が長い)がある。 (コロナ対策:その2 通院・散髪)

(1)二つの病院で「薬だけ」をいつもどおりに出して貰うように相談して
   みたら 電話だけで実現できた! 
   いつもの薬局に処方箋がFAXで届けられた。 但し 電話診察の費用
   だけは次回請求される制度らしい。 ➡通院ゼロ

(2)月一回の散髪だけは・・・と諦めていたら 耳元の伸びた髪だけでも
   何とかなりそうなバリカンが広告にあったので 注文してみたら 
   昨日届いた。 写真参照 
200515 バリカン.jpg
   見た目には何とか使えそうだったが・・・鏡では左右逆転するので
   使用感覚がなかなかつかめない! 
   試行錯誤しながら 慣れてゆくしかなさそうだ!




長崎駅周辺の変貌(工事中)

 長崎駅裏に建設された(完成第一号)「長崎警察署」が4/1からオープンした。 併設された「自動車免許センター」も同日オープンだったが コロナ予防の為休止されていた。 「高齢者免許試験」だけが5/11から実施。 同日5/11に自動車学校で「高齢者研修」を済ましたので 翌5/12に免許更新を済ましてきた。 (有効期限が5/17に迫っていた為) 感想は後述。
 
 帰りに・・新しくなりつつある「長崎駅周辺を見学して来た! 次の図面から関係位置を参照下さい。(現駅前広場 現県庁 新JR線路 新警察署 工事中の「出島メッセ長崎」) 200513 長崎駅周辺計画図.jpg
 以下の写真を眺めながら想像下さい。 自分も思い描けない計画部分が随所にあるようだった。
(1)長崎駅の「西口玄関」(既に稼働中)200513 JR長崎西口.jpg
(2)建設中の「出島メッセ長崎」想像図(今年11/E工事完了予定) このビルの右側が「長崎警察署」 200513 出島メッセ長崎.jpg
(3)長崎駅と浦上駅との中間位に計画されているサッカー場予想図(ジャパネットたかたが経営) 200513 サッカー場.jpg
(4)旧長崎駅の撤去工事状況 (旧プットホーム 整地済の線路 新幹線レール側の整地現場)200512 工事待ちの駅ホーム.jpg
200512 整地済の長崎駅裏.jpg
200512 工事中の新幹線線路.jpg 

 ひと通り見物したばかりなので「大型商店街」や「新ホテル」などの進出計画は まだ調査できていない。 刻々と様変わりしてゆくだろうから 時々歩いてみたいスポットだろう! 

追記: 実務が開始されたばかりの「自動車免許センター」は 長崎市内各警察
署に間借り状態だった窓口を一か所に集約されていた。
職員もお客もまだ慣れていないので お互いに戸惑う場面が散見された。
 最初のコーナで「旧免許証」を渡し、「新免許証」作成準備のコーナ
で ・・・「8桁の暗証番号」を突然求められたが 「長すぎる」し 事前
の 案内書にも無かったのでビックリ!
    免許証を受け取る段階で判ったのだが・・「4桁 2種類」の暗証番号
だと言って貰いたかった!   
 


 

ソーメンの季節に備えて(茗荷が乱立)

 この間まで「大黄花カタバミ」で一面を占領されていた場所が 柿木の葉っぱで日陰になってきたら・・・「茗荷」(みょうが)がニョキニョキと伸びてきた。 早速 カタバミを取り除いて・・・写真の如く茗荷の根本が見え易くしておいた! 200508 茗荷1 .JPG

 ソーメンのシーズンになったら 食事直前につまみに行くのが 今から楽しみである。
同じ場所が「大黄花カタバミ」に占領されていた時は 次のような光景だった。 DSCF8734.JPG

 最近のブログ記事は コロナ騒動の為 外出を控えて読書記事を取り上げていたので・・・内容的にやや堅過ぎた感じになってしまった。  
まだ暫くは コロナ予防のキャンペーンが続きそうだが・・・できるだけ足を鍛えながら 世間の出来事を自分なりに見聞きしながら 身近なブログに舵を戻して行こうと思う。 さりながら今回のテーマは他愛無さ過ぎたかな?



読書・「原子力船 むつ」

 今年1月23日付毎日新聞に 原子力船「むつ」の原子炉などの展示品について「青森研究開発センター長」からの紹介記事を見たので 
関連情報を 文献などから一通り調べてみた。 昭38年三菱長崎造船所に入社した者としては 詳しい事を今頃知る事ばかりだった。 

 読まないまま積まれぱなしだった本「原子力船 むつ」が本棚にあったので・・・その本を今回のテーマーに取り上げてみた。
(コロナ対策:その3 読書)200503 原子力船むつ(1).jpg

 この本の著者は 昭37年に原子力船を取り扱う東大工学部原子力工学科 
初代教授(55才)だった。(元々は造船工学部出身者)
そんな経歴から 原子力船の計画から事後処理まで終始審議委員 や顧問 
を歴任されていたので 原子力船「むつ」の全貌を語るには「最適任者」
である。
 
 先生74才にして本書出版にこぎ着けられたので 先生の達成感も十分に伝わってきた。 
詳細は 本書を読んで頂きたいが 「むつ」建造の全体像は おおよそ次のとおりだった。

 そもそも「原子力の平和利用」は 昭28年12月アイゼンハワーから国連に提唱
されたもので それ以降「平和利用」ならばと・・各国でも取り組むように
なったとされている。 
わが国では 昭30年に「原子力基本法」を制定して 各種委員会 
や研究会を積み重ねながら・・・「原子力発電」と「原子力船」に
取り組んだとされていた。

(1)昭29年4月 原子力平和利用研究補助金が突如予算化された 
   (その頃 小生は 14才(中二)くらいだった)

(2)昭30年11月 財団法人原子力研究所を発足 (理事長:石川経済連会長)

(3)昭30年以降 原子力船調査会 原子力船研究協会 欧米調査派遣団 
   原子力船専門部会 等が次々と設立されながら 建造計画の具体化に
   取り組まれた。

(4)昭38/6/8 日本原子力船開発事業団法が公布施行。  同年8/17
   「日本原子力船開発事業団」を設立  各造船所も
   設計要員を加勢として派遣。  長崎からも先輩や同僚6名が交代で
   派遣されていた (同僚派遣者から情報入手)
 
(5)昭42/3/31 8000総トン型  建造目的は「特殊貨物輸送」と
   「乗員養成」とにする旨決定。  船会社と航海訓練所から
   全乗り組み員(士官から賄いまで)を派遣。 
   1回の出航での船員構成は:58名
   研修経験者:延べ約400名

(6)昭44/6/12 「むつ進水」 於いて石川島播磨東京 200503 原子力船むつ(2).jpg

(7)昭49/8/26 初臨界達成

(8)昭49/9/1 「むつ」放射線漏れ事故発生!   
    事故直後から「むつ放射線遮蔽」技術検討委員会  遮蔽小委員会
    (座長:安藤先生) 原子力行政懇談会  原子力安全委員会 
    などが設立されて原因調査と再発防止策を策定

(9)昭53/7/18 長崎県知事と佐世保市長が 佐世保での「むつ修理」を
    受託  その時 新幹線長崎線を政治的に取引きされた模様

(10)昭57/8/31 佐世保出航  同年9/6 母港の大湊入港

(11)昭59/1/17 自民党科学技術部会が 「むつ 廃船」を決定

(12)昭60/3/31 今後1年を目途に実験航海を実施する旨 
    総理と運輸大臣談話を発表 

(13)平2/7/10 第一次航海試験開始 以後第四次航海試験までを実施し 
    原子力船として 全ての性能試験を実施した

(14)平4/2/14 「実験航海終了」を原研が宣言

(15)平5/5/28 燃料取り出し作業開始  平7/6/22 原子炉室撤去・
    解体工事終了
を以って 原子力船「むつ」の 建造目的すべてを
    終了した。 読後に逆算したら 41年間にも及ぶ超長期間の国家
    プロジェクトだった。
    著者 安藤良夫先生は この長期間の国家プロジェクトの記録を纏め
    上げられたのである。(平7年85歳で永眠)


 所見: 大型タンカーブーム直前に入社した小生も
     80才を迎えてから 本書を読んだ訳である。
     前述(8)項の「放射線漏れ」を防ぎ得なかったのは? という観点
     から熟読を試みたが・・・本書には解を見っける事ができなかった。
 
     実験船「むつ」の建造は 学者先生たちが推進された「国家プロ
     ジェクト」だったので・・・。
    (1)各社派遣の船員たちは 安全航走に必要な「制御盤」審査に
       すら「らち外」の扱いだったのだろう?
    (2)造船各社派遣の設計者は 「加勢者扱い」だったので・・・
       明らかに「らち外」の扱いだった筈。

     ガンマー線モニターが危険を検知した訳であるが この計器
     に対して 船員は何を要求しておけば良かったのか?
     学者先生にお任せ放しで・・・怖い(危険な)船を乗り出して
     良かったのだろうか?

     今日(80才)の「アト知恵」ではあるが 読後率直な感想
     である。 

      

読書「わがおじ周恩来」

 昨年出版されたばかりの「本のタイトル」が目新しかったので 図書館から借りて読んでみた。 著者の祖父母が親戚の子「周恩来」を可愛がり・・学費の支援などの面倒を見ていたという書き出しから始まり しかも覚えにくい漢字名だから最初は閉口したが 高齢になった著者が生きている内に 言い残しておきたいという事柄を読み進めていたら その内容に引き込まれてしまった。
(コロナ対策:その1 読書) 200424 わがおじ周恩来.jpg

 本書の要点を時系列的に理解する為 年号等をネット情報から補足した。
 (1) 周恩来は子供の頃から 筆者の祖父母が親身になって生活の援助と教育支援
 (2) 周恩来が27才の頃 英・独・仏へ留学(筆者の祖父母が支援・西太后政権下
   では国費留学かなわず)
 (3) 周恩来32才の頃に筆者誕生 日本軍から隠れる為に周恩来は筆者宅に時々
   匿われていた。
    筆者の父親が後妻と不仲で失踪した為 筆者は継母の許に居づらくて 
   家を飛び出し 単身北京の小学校(寮生活)へ。
    周恩来は筆者を探し出して 父親代わりだと称して筆者の進学を支援。 
   筆者は弟を引き取り 少年兵になって実社会を体験 
    筆者は周恩来の少年時代と 同じ貧しさだったから甘えられた。 
   中高大学生になるにつれ 周恩来から対談の形で鍛えられた。
    国民からの風評を分析して語らされた。 周恩来はこの分析を語り合い
   ながら 政策のシュミレーションを行っていたようだ
   と 筆者は語りたかったようだ。

 (4) 国民党と解放軍とが共闘して日本軍に立ち向かっていた頃は 日本軍に
   狙われていた。 筆者宅に身を隠す事がたびたび。
 (5) 1945 (昭20/8/15) 日本の敗戦と同時に 国民党(蒋介石)と解放軍(毛沢東)
     との覇権争いに突入
 (6) 1949 蒋介石が台湾に撤退後は 中国人民共和国建設にまい進 
    「農地解放」から裕福農民の出現 「異文化圏人民」の問題(モンゴル等)
 (7) 1966 紅衛兵による国内大混乱(毛沢東が言い出した「文化大革命」だった
     ので周恩来は苦慮 江青女子は周恩来つぶしを画策した )
      筆者が言いたかったのは 周恩来は国民の気持ちと共産国家建設
     との接点を模索していた心理学者的人物で 政治家としての手柄には
     無頓着だったようだと。  
   
 (8) 1976/1/8 周恩来首相逝去(78才) 
 (9) 1976/9/9 毛沢東主席逝去  10/6には四人組が逮捕さる 
 (10) 1980/11/20~1981/1/25 四人組裁判・判決 江青女子は獄中自殺  
     一人は獄中病死 二人は出獄後病死

  本書ではざっと前述の内容だったが・・1972年(昭47)田中角栄首相との
 日中共同声明が取り交わされたのは 周恩来逝去4年前だった。
 しかも 紅衛兵活動が未だ盛んな時期での大英断だった。


追伸: 中国の歴史を知るには「歴代皇帝」の活躍を知る必要があるという
   事を思い出した。
   明王朝(1368~1644)の280年間は「漢民族」支配の時代だった。
   清王朝(1616~1912)の300年間は「満州族」支配の時代だった。
    両王朝のラップ時期は 明王朝末期の攻防の時期だった。 
    TVドラマで有名な「西太后」は清朝末期アヘン戦争のヒーロー)

   「漢民族」の力で「中国の共産化」が達成されたのを知ると・・   
   「いい思い」「不遇」の時代とが 繰り返されているようにも
   見受けられるのが興味深い。

    

立ち止まって居たら・・「取り残されて」しまった!

 中学生が3年も経てば・・・高校生! この位のスピードで「パソコンの世界」は進歩(前進)しているのに もう使えるように成ったからと満足していたら・・・巻末の「用語集」から読み直さねば理解できない程に・・・取り残されてしまっていた感じ! 
 4年前に買った解説書「Window 10」自体でも クラウドの分野では 最早そのままではないようだった。 マイクロソフトのクラウド「OneDrive」の章にも 「スマホ技術の進歩」の影響が濃厚みたい。  「年寄り」が今更何に使うのか? はアトで考える事にして・・・先ずは「遅れ解消」を意識し始めた!

 スマホを最初に買ったのは 2011年/1月だった。 「解説書」「本体」とを持って・・・入院(手術)した時から始まった! 膵炎が2度程発症したので 手術も多少遅れたが 退院日には「スマホ」「パソコン」とのデーター共有化ができるまでに習得できていた。 
 しかし 入院中に首が痛くなったので 「整形外科」にも受診したら「原因不明」だと診断された・・・退院後 その原因にも気付いた。

 「ワープロ」の時代から始まり 会社の説明資料をきれいに仕上げたり 「メール」ができる程度のパソコンの時代を経由して・・・「スマホ」「タブレット」の時代を迎えたら・・「資料」「写真情報」を 職場の仲間 や個人的な友人が 遠隔地でも瞬時に「情報の共有化」ができる時代に「移行」してしまっていたようだった
 そんな「やぶの中」に居た「自分の立ち位置」に やっと気付いた感じである。

 添付資料に 自分の体験から「世の中の流れ」を整理してみたつもりです!!200323 自宅パソコンの変遷.jpg
追記: 2011年からスマホを使い始めた頃に・・「超仕事術」(著者:倉下
   忠憲)や 「超整理法」(著者:野口悠紀雄)等に刺激を受けていた
   ので その当時は猛勉強をしたようだった! 
    当時購読した本は WIN.10関係が3冊 EXCEL関係1冊 スマホ
   GALAXY関係 3冊 WiーFi関係 2冊 筆ぐるめ関係 2冊 
   PowerPoint関係 3冊が 続々と本棚から出てきた有り様!
   
    


TVドラマ「おしん」(再放送)

 1983年(昭58年度)毎朝15分間放送されたTVドラマ(再放送)を やっと見終えた。 当時は東京で勤務中だったので「おしん」が秋田へ奉公に出される時の「川下りのシーン」くらいしか覚えていなかったが 今回はしっかりと見終えた! 母親役の泉ピン子の熱演振りにも目を見張った! https://www.bing.com/images/search?q=tv%e3%83%89%e3%83%a9%e3%83%9e%e3%81%8a%e3%81%97%e3%82%93&qpvt=tv%e3%83%89%e3%83%a9%e3%83%9e%e3%81%8a%e3%81%97%e3%82%93&FORM=IGRE
明治後期から昭和後年までの時代背景だから・・・自分の親よりもちょっと年上くらい。 女中奉公のありようについては 祖母からも世間話として聞かされていたので・・・凡そ想像もできた。

 主人公「おしん」を演じる女優も 「小林綾子」「田中裕子」「乙羽信子」の三人に移り変わりながら 夫々が見応えのある好演技。 更に作者「橋田寿賀子」の絶妙な筋書きに乗せられてしまった感じだった。 この作品が東南アジアでも大ヒットし、反日感情が旺盛になった中国でも 反日感情が薄れたとも報じられた模様。 https://yukashikisekai.com/?p=79951

ネット検索してみたら・・・「おしん」には モデルになった人の実話が 作者にも伝えられていたらしい。 https://blog.goo.ne.jp/walking2012/e/0d33dbdf92a3bc871523dc1dbec0ae25

 これまでに「再放送」「ビデオ販売」が繰り返し行われているようだから・・・「貧乏」「苦労」「我慢」などを体験したり、知っている人たちには 近隣諸国も含めて共感を得たようである。 「作者・橋田寿賀子」の実力を改めて感じた! まだ94才らしいので・・・瀬戸口寂聴共々 益々の発信を期待したい!

メール ソフト「OutLook」を勉強する羽目になった!

 今回のPC故障は「ハードディスク」(メモリー装置本体)の取替えを要する重大な故障で しかもメモリーを別途保存して居なかったので致命的だった。 しかし販売店の技術力で幸運にも「写真」「ドキュメント」「データー」だけは 抽出(救出)して貰えた。 けれども・・・使える状態にまで整えるには「ひと月」を要した!
 
 手こずった実情は これまではメール専用のソフト「ビッグローブ」を使っていたのだが PCの修理時に店の配慮(サービス)で マイクロサフト社の「OutLook」がインストールされていたので MSソフトならば この際使い込んでみようと大らかな気持ちだったが・・・いざ使ってみると 幾つかの難しい壁にぶつかった! 例えば 「OFFICE 2019」 「OFFICE365」 との違いが判らないし・・加えて 無くなってしまった「アドレス 一つ」を再入力するのにも その方法が解らない! 原稿のコピーを移設するにも その操作方法がうまくゆかない等 基本操作ですらうまくゆかない! 等々多々直面した。
 ひと月間掛かって 何とか使えそうな状態にまで整えたが・・・メールが「発信」されたのかどうか? 返信が「届いている」のかどうか? 等 肝心な部分がすぐには表示されない等 今も尚 不安な事を積み残したままである。 イチから勉強してみようかと発奮して わざわざ「参考書」を買いに出掛けた次第だった。

写真1 :「OutLook 2019」(定価:1480円)IMG_20200307_0001_NEW.jpg

写真2 : 雑誌「PC21」 データー救出&バックアップ編 IMG_20200307_0002_NEW.jpg

 そもそも「OutLook」が難しくなっているのは 何故なのか? 肝心なところが未消化ではあるが・・・「メール」の外にも「予定表」「タスク」「メモ」「クラウド」「スマホ」等とも「連携し易い」ように改善されているらしい!  「会議の予定」も「タスク」も必要が無くなった気楽な身の上の自分に 果たして必要なソフトだったのかどうか? ではあるが・・・兎に角 使えるところだけでも使い慣れてみようかと 考え直したばかりである。 
「ブログ」「クラウド」「スマホ」との連携を整える為には もう一冊の参考書(定価:1480円)が必要なようだった!

 折角 若者達と同じ「便利さ」の習得に 挑戦してみるつもりになったのだから ひと月くらいは精々楽しまねばと・・・「気持ち」を立て直したばかりである! 来月には80才を迎えるので・・・厄介な事には「最後の挑戦」になるのかも知れない・・・! 


追伸: ついさっき 同期入社の友人(80才?)が 
    長崎県の「聖火ランナー」に 選ばれそうだとの知らせが入った。 
    正式決定は報道待ちながらも・・・目出度い知らせである!
  

2月29日 パソコン復旧にやっと目途がついた❕

 以前のように・・・パソコンを何とか使えそうな感触をやっと取り戻した! 記念すべき「うるう年」になった。
幸運にも「販売店の腕力」で 壊れた「ハードディスク」から「記録データー」だけは救出して貰えたが・・・救助はそこまでで プリンターでの印刷やスキャン その他多くの「ソフトウェア」が機能するようにするのは 当然の事ながら「持ち主のテリトリー」だった。

 おかげで何度も「販売店のアドバイス」も仰ぎに出掛けた。 今日までの1か月間はメールの受発信など肝心な用途で「試行錯誤」の繰り返しだった。 ドキュメントに収納しているデーターの「保管分類」も 今日やっと目途がついた。(古いデーターの保管場所から拾い出す作業はこれからである。)

 店とのやり取りだけでロスした修理期間が 2か月間を超えたので・・・クラウドに依っては長期間使っていないと判定され その「使用権」を打ち切られていたのに気付いてから・・・その復旧にも又手こずった! 
使われていないクラウドにも 業者は目を光らせて(多分コンピューターが自動的に)・・・容量をアップしてもっと便利に使うように勧誘する等怠りが無いようだった! 

  日頃は 忙しいパソコン業界に接する事もなく 只々 使い慣れた「メール」「ブログ」の受発信や 「ウェブ情報」の収集くらいに楽々としていた「年寄り」には 時代遅れを自覚するだけでも苦痛だった。 しかし 何となく若い世代の世界を垣間見たような気分だった。
と同時に 万一 もう一度「パソコンを新調」せざるを得なかった時に 「専門業者」に頼めるように 使用している全ての「ソフトの種類」だけは 提示できるようにしておかねばと「大きな反省」を自覚した次第!!!




ホームセンターにも「配線用部品」が無くなっていた!

 ホームセンターにエアコン用の 簡単な「配線用部品」を探しに行ったら・・・「在庫が無い」と言われた!
帰宅して暫く対策を考えていたら・・・購入後40年も経っているので「作り方」も 製品の「流行」も変わってしまっているのだと気付かされた。

 (1)A/C用操作スイッチまでの配線詳細
    1-1) 配線全体(最近のエアコンは「無線式リモコン」の為 このコード
      部分が使われないので 在庫も無くなっていた) (1)エアコンの概要.JPG
1-2) リモコン操作盤周辺 (2)エアコンの操作スイッチ.JPG
    1-3) 配線を壁への固定部分 (3)エアコン操作コード.JPG
 (2)不具合状況
    前述 1-3)項で ケーブルを壁に固定している部分に注目下さい。 
固定する為の簡単な部品が老化して用を足さなく なってしまい・・・ ケーブルが壁に垂れ下がってしまった! 
 (3)当座の対策は 写真のとおり前述固定部品のネジの部分に
「紐で固定」した。 
リモコンケーブル自体が断線又はリモコンスイッチが故障したら・・ エアコンの買い替えの時期になる。

 (4)家を建てて以来 我が家でのエアコン装備の経緯は次のとおりだった。 
最初は「食堂」「リビング」程度に 有れば良かったエアコンも 
今では全室で必要になっている。 200225 自宅エアコンの装備履歴.jpg

  壊れたら換装せねばならないのだが・・・この年齢になったら 買い替えも躊躇われる感じである!       


暖冬の「水辺の森公園」

 ころころと移り変わる冬の天候ではあるが 今日は晴天に恵まれ、しかも暖かかったので 「水辺の森公園」まで出掛けて来た。 中国での「新型肺炎騒ぎ」もあってか・・・人出はめっきりまばらだった。
(1)客船の運航が中止されている筈なのに 「コスタ・ペネチア」(135,000トン) が 堂々と係船(寄港)していた。(乗客の有無は未確認)
コスタ・ペネチア(1).JPG
(2)公園の広場はガランガランだった。 広場(3).JPG
(3)寒さの中でも 幼稚園児だけは元気よく遊んで居た。 公園(2).JPG
(4)年度末の予算で駆け込み作業中の「岸壁改修工事」が目立った! 工事中の岸壁(5).JPG工事中の岸壁(3).JPG工事中の岸壁(1).JPG
(5)「水辺の森公園」まで来たからには「レストラン」での昼食を楽しんで来た! 料理(2).JPG

2/12に追記: レストランでは「珍しい身だしなみ」(割烹着と三角巾姿)の女給さん6人位が目立って・・・注文取りに立ち回っていた! 何事か?・・・と思ったら 五島・壱岐・対馬の三島から派遣された「ボランティアの給仕」さん達だった。 
2/21まで「長崎しまフェア」が開催中だった。 パンフ参照 
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後輩から問われた「元気の素」?

 「同窓会の席」で 長崎に赴任中の(初対面の)後輩から 先輩の「元気の素」は何か? と問われた!

 「想定外の話題」だったのでいささか驚いたが 「味の素」「元気の素」とを対比したら・・・面白い質問だと感心した!!!
 語る程の事は持ち合わせて居ないが・・・70才でヨット乗りを止めてから 「外出の予定」がメッキリ少なくなったので「外出する生活リズム」をつくる為に 「ブログづくり」「調査準備」とを始めた経緯を紹介して・・これが最近では「元気の素」になっているようだと話しておいた。 

 さて6年位前(2013/10/13)からブログ発信を開始したのだが・・・今では360件位(5件/月位)の発信をキープしている。 1件のネタを仕上げる為には・・・「裏付け調査」が伴うので 結構楽しんでいる生き甲斐にもなっている)ようだ。 次に彼と再会した時には 彼自身の「元気の素」も聞いてみたい。
 
 改めて 古い順番から記事を読み直してみたら・・・編集内容の移り変わりにも気ずかされ 我ながら長期間楽しんでいるように思う。
昨年6月から又「ヨット乗り」を再開したので その時の感慨を・・・「7編」に収録しているので参照下さい。 (1編に20件の記事を収録されているが 現在は18編まで蓄積中)

追記: 最初は「出島ばさるく」のタイトルでスタートしたが 取り上げる内容が「ヨットの事」「世間の一般情報」にまで拡がった為 年寄りの身の上である事も自覚して・・・タイトルも「出島のおきな」に変更した。




講談師:神田松之亟(かんだまつのじょう)

 1月31日 NHK TV「あさイチ」で ゲスト出演者・神田松之丞が 神田派の「講談」について紹介を語っていたので ついつい聞き入ってしまった。200201 神田松之亟.jpg 
 「釈台」(しゃくだい)を小気味よく叩きながら・・・語るサマを何となく懐かしく感じたからである。 小学2年の頃(昭和23年)全校生が講堂で「講談」を聞かせて貰ったくらいの記憶ではあるが・・・独特な「語り口」「リズム感」とが印象に残っていた。
神田派の講談師は 今では10名位になっているが 元気で頑張っているらしい。 (講談は明治後半から始まった芸能)

 講談は 落語とは異なり「古典落語」のようなものが無く 常に「世相を語る」芸なので「原稿」の良し悪しが「いのち」だったらしい。 講談の「原稿」だけを出版していたのが 現在の「講談社」だと教えられ・・・改めて社名の由来を知らされた!  

追記:小2の頃に「講談」を子供たちに聞かせてくれるような「教育姿勢」が 当時の小学校に有ったのだろうか? 或いは食料事情から 講談業界が地方巡業に意欲的だったのだろうか?  いずれにせよ 遠い昔のことを思い巡らすひと時だった。

「ハードデイスク」を取り換えるという事は・・・?

 パソコンの「ハードディスク」を交換するという事は 「全ての記憶」を失うという事だったが・・・記憶メモリーの一部分だけでも 辛うじて読み取って (救出)  貰う事ができた。 「ドキュメント」「ピクチャー」との記憶内容だけは 辛うじて 完璧に救われた!  過去の「メール記録」も救出できたが 「アドレス帳」だけは消えてしまったので 目下到着したメールから「相手のアドレス」を(教えて貰った)煩雑な読み取り操作で・・・アドレス帳を再構築中! 一旦享受していた便利さを 破壊されるという事は 「残酷」そのものである。

 メールソフトが変わったので・・・「操作感覚」も全く変わってしまった。 謎解きをしながら・・・発信している感覚!
パソコンに熱中するあまり・・・運動不足になり 「血糖値」がバンバン上昇してしまった。 
「便利だった物」が壊れるという事は・・・やらねばならない事が一斉に降りかかって来た・・感じである。

やっとブログを再開できました !

パソコンの修理が長期間難航したが・・・ハードデイスクを交換してやっと手元に届けられました。 失われたデーターを再構築するのに当分手間が掛かりそうです !! メールもアドレスを失ってしまったので まだ一通も出せずに暫くは修復に熱中せねばならないようです。 メモリーを採って置かなかった事を後悔しきり。 マウスもまだ使えない (設定できない) ので 原始的な苦労を味わされている。 70才代最後の苦労と挑戦になりそうだ!!!

今年から いよいよ「5Gの時代」を迎え・・・高齢者にも暮らしやすい時代になって貰える時代だと。 イメージとしては「自動操縦の自動車が出現」や「病院間での遠隔地診療」 等々らしい。
高齢者は命を預けるのだから・・・それに相応しい感動や感謝とを覚えられるような高齢者でなければと自覚させられた新年だった。

 

「たいらがね」(多比良で獲れていた蟹)

 子供の頃に島原鉄道・多比良駅で汽車が着く度に「たいらがね」を売っていた「おばあさん」が居た。 短時間に何ほどの売り上げだったのかは知らない。 友人に尋ねてみたら・・・小学生の頃(70年位前)に「おそめ」おばあさんという人が居られた筈だと。 この「記憶の一言」から郷里の「たいらがね」の事を ネットで調べ直してみたが ネットでは宣伝記事ばかりで「昔」と「今」との歴史を知るには甚だ困難だった。 「たいらがね」とは多比良町で獲れる蟹を意味する言葉だったが・・・今では町村合併もあったので 国見町の「商品名」として復活されていた。 

 国見町商工会に「たいらがね振興会」なる見出しを見付けたので 早速初代会長(昭和9年生まれ 85才)に電話インタビューを試みた。 土地の方言で話していたら・・旧知の仲でもあるように何でも話して貰えた。 先ずは「たいらがね」について掲載します。

(1)「たいらがね」の姿 (有明海のわたりカニ)191125 たいらがね2.jpg191125 たいらがね3.jpg
(2)振興会の会員 国見町内:10店舗 (多比良:2 土黒6 神代:2)たいらがね振興会会員.jpg
(3)蟹の漁船数 国見全体で10隻足らず。 但し 多比良はゼロになった。
(4)蟹の仕入れ形態 捕れたら漁船から電話連絡があり直接仕入れている。 蟹は塩水中に1カ月程度ならば活かせる。
(5)漁期は4~10月くらい。
(6)食べ頃 オスとメスとの食べ頃がありそうだが 聞き洩らした。
(7)甲羅酒(こうらさけ)の飲み方は「甲羅」に酒を注いで飲み干していたようだが 肝心な飲み頃は聞き洩らした。
(8)昔の呼び方「たいらがね」を強調したのは? 理由は聞き洩らしたが「竹崎カニ」を意識して宣伝効果を考えられたみたい。

参考ー1 竹崎カニ:「たいらがね」と同じ有明海で獲れる「わたりカニ」なのに 最近では「竹崎カニ」の方が何倍も有名なのは何故か?
 
  観光客呼び込みの観点から JR本線に隣接している有利さなのかも知れない! 一方「たいらがね」は 島原鉄道の途中駅だから「決定的なハンディー」を背負っている感じ。

参考ー2 ズワイガニ: 山口県以東の日本海全域で獲れるこの蟹は 食域・収穫量共に全国的なレベルであり 有明海の蟹では及びも着かない!  詳しくはHPを参照!
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%8B
  但し この種の蟹も 水揚げされる「地名」を採って「商品名」にされているようだ。

追記:我が郷里は2度も町村合併を繰り返し 今では「有明海」の外「千々和湾」にも接するような 広い町になってしまったので 「古里意識」も相当に変わってしまった。
1度目の合併は: 昭和32年3/22  62年前に 多比良⇒国見町(多比良+土黒+神代)
2度目の合併は: 平成17年10/11 14年前に 国見町⇒雲仙市(国見+瑞穂+吾妻+愛野+小浜)